手紙

作者は何かを書くとき、感覚としては書いていないのだそう。それは、作者は書いているのではなく、何かに突き動かされることにより、書かされているから。よく、「この作品の作者の意図は?」という質問があるけれど、それは作者も分からないのだと。作者は作者である自覚がない。そして読者を意識して書いているわけではないから、書き上げた後で「読者に伝えたかったこと」を聞かれても、実のところは「特にない」。確かに、読者の存在を気にしながら書くと、純粋な自分の言葉が出てこなくなると思う。

SNSは不特定多数が見る場所だが、そこに投稿されるものは純粋な自分の言葉ではない。それは、想定されるどんな人物が見ても問題ないように自分の言葉を書き換えているから。自分の親しい人にあてる言葉は、思い浮かぶ言葉がそこまで「翻訳」されることなくそのまま発されているはずだ。

頻度は多くないが、突然、手紙を書くことがある。最初はその人に話すように書いているのだが、書いているうちにだんだん自分と話しているかのような感覚になってくる。でもこういう感覚で書いている言葉こそが、自分の言葉なんだと思う。それでは日記やエッセイと変わらないのでは?とも思う。だけれど、私は手紙を書くときに自分と話しているようでありつつも、出てくる言葉はその人を思いながら書いているからこそ存在するものでもある。

思い返すと、私は写真を撮っている時は写真を撮っている自覚がない。シャッターを押した後のシーンを想像して、一瞬の間ただその世界に没入しているというか。後で写真について、「こういう意図でこういう構図にしたの?」などと聞かれることがあるが、当時は何か意図を作り出そうと意識して撮っているわけではない。でも無意識的にそうしているかもしれない。こういう写真の分析は、第三者だからこそできるものだと思う。

それに反して、私は絵を描くとき、絵を描いている自覚がある。描ける絵を描くのは得意だけど、描きたい絵を描くのは得意ではないので、努力している感覚があるのでしょう。

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